サラリーマン。
サラリー(Salary)は月給、給料のことで、サラリーを得て生活する人はSalariedというのがほんとうで、サラリーマんは和製英語です。
現代でもサラリーマンは、一般的に民間会社で働く人たちのことをいい、同じ月給取りでも公務員にあまり使われないのは、明治の初期に官員と呼ばれた役人が一般民間人と区別されていた名残でしょう。
サラリーマんの第一号を生んだのは、1869年(明治2)に静岡にできた「商法会所」で、その後は「丸屋商店(現在の丸善)」といわれています。
サラリーマン。
サラリー(Salary)は月給、給料のことで、サラリーを得て生活する人はSalariedというのがほんとうで、サラリーマんは和製英語です。
現代でもサラリーマンは、一般的に民間会社で働く人たちのことをいい、同じ月給取りでも公務員にあまり使われないのは、明治の初期に官員と呼ばれた役人が一般民間人と区別されていた名残でしょう。
サラリーマんの第一号を生んだのは、1869年(明治2)に静岡にできた「商法会所」で、その後は「丸屋商店(現在の丸善)」といわれています。
福沢の会社知識によって最初に結成された株式会社は1869年(明治二)の丸屋商社(現丸善)でした。
しかしながらまだ完全な株式組織ではなかった。
同じころ三都や開港場など八ヵ所に設立された通商会社や為替会社も日本最初の株式会社とされているが、いずれも不完全なもので多くは失敗に終っています。
1872年(明治五)11月、政府は国立銀行条例を公布した。
この条例では、国立銀行は株式会社でなければならないと規定しており、会社組織としては完全に近いものでした。
この条例に準拠して1873~79年(明治6~12)まで設立された国立銀行は一五三行に及んだ。
これが日本最初の株式会社といえるでしょう。
世界最初の株式会社は、1602年設立のオランダ東インド会社です。
オランダ独立戦争後の1595年、オランダの商業資本は東インド貿易に乗り出した。
そのさい、船舶の建造などに必要な巨額の資本を獲得するため、会社企業が設立されたのです。
日本に株式会社の思想が輸入されたのは、明治維新(1868)以後です。
日本で最初に株式会社企業の計画を立てたのは勘定奉行で有名な小栗上野介で、1860年(万延元)の遣米使節の一行に加わり渡米、財政・経済についても勉強して来た。
ついで、福沢諭吉も1866年(慶応二)に『西洋事情』初編三冊に商社について紹介しています。
友以は、銅商としてばかりでなく、糸・反物・砂糖・菜種・外国商品をあつかい、事業をひろげて、この資力で両替商も開業した。
その子友信は銅鉱山の経営に進出し、友信の長男・友芳は1691年(元禄四)別子銅山を開鉱、以来、住友は江戸期を通じて最大の銅鉱業を経営した。
住友財閥は、維新以後その主力を銅精錬業及び関連事業にそそぐことから発展し、三井財閥のように金融・商業部門を中核としてコソツェルソ形態を形成したのとは、いちじるしい対照をなしています。
1895年(明治28)、住友銀行を創設して各種事業の連携を強化し、重工業財閥を形成していきました。
1912年(大正10)、住友合資会社を設立し、各事業部門は株式会社に改組され、住友は合資会社を持株会社とする財閥を形成したのです。
住友家は、もともと武士の出であったが、家祖政友(1585~1652)が京都において富士屋という菜種商をひらき、また書籍などを商い、商人となりました。
政友は二人の子があり、長男・政以は京都の家をつがせ、長女には銅商であり、南蛮吹きの技術を知っていた義兄の蘇我理右衛門の子、理兵衛を婿にし、友以(1607~62)と名のらせた。
この友以は、1630年(寛永七)大阪にうつり泉屋という銅商を営んだ。
その後京都の住友本家がふるわなくなり、分家の泉屋に吸収されたので、友以が住友家の業祖といえます。
1874年(明治7)の征台の役、77年(明治10)の西南の役では大久保利通らの支援をえて軍事輸送に従事し、政府の海運保護政策により内外航路の独占権を確保して、三井と並ぶ政商としての地位を築くとともに資本を蓄積した。
それらをもとに高島炭鉱、金銀銅山の経営、為替事業、海上保険にも手をひろげていきました。
1893年(明治26)、三菱合資会社を設立し、95年(明治28)会社内部に銀行部を設けて第119国立銀行の業務を引き継ぎ、三菱諸事業の機関銀行とした。
1917年(大正六)以後、諸事業を分離して株式会社として独立させ、三菱合資会社を頂点とする三菱財閥が成立した。
三菱財閥の創始者は岩崎弥太郎(1834~85)です。
彼は867年(慶応三)、長崎土佐商会の主任として通商、航海を担当するようになり、後藤象二郎や反幕開国論者の坂本龍馬の仕事を助けた。
これが実業活動のはじめです。
その後、活動の場を大阪に移したが、1870年(明治三)、大阪土佐商会が解散され、当時土佐藩権少参事の弥太郎は土佐屋善兵衛の名で、「土佐開成社」を創立した。
これは政府の私企業育成にあわせた偽装であり、大阪土佐商会の使用権、藩船三隻の貸与をえて廻漕業をはじめ、後年海運業での成功の第一歩を踏みだした。
まもなく「九十九商会」と改称し三菱の商標をさだめ、「八七二年(明治五)には貸与船を買い受け「三ッ川商会」、ついで「三菱商会」とあらため私企業としました。
最近は生産技術の向上とQC(品質管理)の徹底で、間違いがなくなり、部品もぴったり合うようになっただけです。
現物合わせは、むしろ発展途上国の修理技術のほうに残っています。
自動車修理など、オリジナル部品がなくても、ギアなどありあわせの鋼材を歯切りし、焼き入れして一応使えるものを作ってしまいます。
これをヒューマソウエアといえるかどうかは別にして、使うほうの工夫であることは確かです。
ヒューマンウエアは文化です。
しかし文化が技術の向上をマイナスすることもあります。
と同時にヒューマンウエアの優秀さはマネジメントの向上もさまたげます。
ヒューマンウエアの適用範囲や程度はきわめて狭いものでした。
外国人はモノや機械をありのままにしか使えない。
そこに不具合があれば故障するだけです。
使う人が注意し、心がけて、モノを上手に使っていくという工夫はない。
日本は昔から現物合わせや現場手直しが得意だった。
機械部品も少々寸法が合わなくても組み付けのときにヤスリで削ったり、寸法を詰めたりして間に合わせました。
現場工事でも少々の設計違いは現場で修正した。
これがヒューマンウエアの最たるものでした。
テープ・アナウンスになってから、故障は全然なくなったが、問題はこういう方法による解決の仕方です。
このテープ・アナウンスはいまでも行われているかどうか知らないが、すくなくとも私のいたあいだは続いていました。
エソジニアでなくても、ふつうの消費者なら、〈どうしていつまでも、ああいう耳障りな放送を続けるのでしょう。
ハードウエア(モノあるいは設備、機械)で解決するのが当然だが、それが難しいのなら、運搬や洗源の工夫などソフトウエア(技術ややり方)の変更はできないのか〉と考えるはずです。
もちろん三菱商事の食堂担当もそのくらいのことは当然考えただろうが、私が問題にしたいのは、ハードやソフトで解決できなかった事実や結果ではなく、それを安易にヒューマソウエアで解決してしまった点です。
すなわち日本独特の、モノや機械を使う人の取り組み方や工夫、あるいは気配りや心がけで欠陥をヵバーしてしまうやり方です。
こんな方法は外国ではとうてい考えられませんでした。
いくらアナウソスをしたって、何年間繰り返したって、外国ならかならず迂闊な奴が出てきます。
一人でも出てくれば、すべてはオジャンになります。